こころの算数
新緑から深緑へ。
風が薫る。
匂いは記憶の喚起装置と言われる。
どこからともなく青草の匂いが運ばれてきて、
不意に記憶がよみがえることがある。
先週、3年生は、台湾修学旅行、
1・2年生は、長野体育スクーリングがあった。
この旅で、どんな「出逢い」があり、
その時、どんな「気持ち」になったのだろう。
その人といるだけで、悩みがふと軽くなる。
そういう経験は、誰にでもあるだろう。
私の敬愛する寺田寅彦(1878~1935、物理学者・随筆家)は、
随筆で師・夏目漱石をこう追憶している。
「~ しかし自分の中にいる極端なエゴイストに言わせれば、
自分にとっては先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、
英文学に通じていようがいまいが、そんな事はどうでもよかった。
いわんや先生が大文豪になろうがなるまいが、そんなことは
問題にも何もならなかった。むしろ先生がいつまでも名もない
ただの学校の先生であってよかったではないかというような気が
するくらいである。先生が大家にならなかったら少なくももっと
長生きをされたであろうという気がするのである。
いろいろな不幸のために心が重くなったときに、先生に会って
話をしていると心の重荷がいつのまにか軽くなっていた。
不平や煩悶(はんもん)のために心の暗くなった時に先生と相対していると、
そういう心の黒雲がきれいに吹き払われ、新しい気分で自分の仕事に全力を
注ぐことができた。先生というものの存在そのものが心の糧(かて)となり
医薬となるのであった。こういう不思議な影響は先生の中のどういうところから
流れ出すのであったか、それを分析しうるほどに先生を客観する事は
問題であり、しようとは思わない。」
「こころの算数」は、いつも不思議である。
10の重荷を支えるには、10の助けが必要といえば、
そうとも限らない。
たった1の励ましが、100の重荷を軽くしてくれることもある。
毎年来るこの季節の「匂い」を大きく胸に吸い込む時、
生徒たちは、この旅が「こころの算数」を教えてくれたことを
ふと思い出すことがあるかもしれない。
文―トモアキ